+++ 浮遊回廊 +++

 


                     永遠に続くのは、いったい、何・・・?

 

  月と夜の間。
  満月か・・・半月か・・・三日月か。
  それとも≪ミカヅキ≫か。
 
  後宮。
  深夜よりも深い青の闇の中。
  十五番目の子供がそっと駈けている。
  こんな夜遅くに一体、何を?
  彼には兄も姉もたくさん居て。
  弟も妹もたくさん出来てきて。
  王位に関係のない正妃以外の子供たちが溢れ返っている。
  
  訊いたことがある。
  知りたくて知りたくて、でも教えられない事に対して腹を立てて。
  幼子のように駄々をこねた。
  記憶の底にある、霞みがかった遠い母のことを。
  薄い金髪に、澄んだ淡い色合いの翡翠の瞳。
  優しくて、色素が薄くて、とても、とても穏やかな人なんだと、聞いたことがある。
  言いにくそうに、内緒ですよ、と教えて貰ったのだ。
  驚いた。
  だって、お前も・・・薄い金色の髪に風のような透けている緑の瞳をしていたから。
  ・・・どこか、異国を彷彿させるような顔立ちと、微かな小麦色の肌。
  それらを除いたら、色は全部、母と同じなのだから・・・。
  自分は、母親譲りだと云う、白い肌に、どこか混ざり気を感じさせる濃淡の付いた濃い金髪。
  父親のものだろうか、濃い青の色の付いた瞳。
  それは夜の薄光のもとでは紫めいて見える。
  従者は酷く優しげに言った。
 「お教えしましょうか、あなたの母君のことを」
  そっと上着を掛けられる。
  夜の空気は冷たく身体に悪いと言った。
  それは酷く柔らかかった・・・。
 「いっそのこと、ご本人を見た方がいいのかもしれない・・・」
  だから。だからだろうか。
  こんな時は、決まって、幼子に戻ったみたいに簡単に、勘違いしてしまいそうになる。
  この優しい従者は・・・。
  声だけは憂鬱そうに響いて消えた。
  従者はどこか異国の血が混ざっている。それは一目でわかるのだけど・・・。
  ゆるく波打った肩にかかる髪を、これも緩く紐で結っている。
  振り向いて、もどかしいくらい緩い結び目の、紐の片方を引っ張った。
  しゅるり・・・。
  それは夜のシンとした空気に溶けていきそうなくらい滑らかな音を立てて、簡単に解けた。
  淡く月光を纏わりつかせた金糸の髪が、ぱらり、と広がる。
  そして、従者のその顔に、可笑しなくらい綺麗に掛かる。・・・縁取る。
  ・・・ゆるく、ゆるく時が流れているような気がする。
  静かに見返す瞳の横に、手を伸ばした。そっと両手を差し入れる。
  耳に掛かった髪を外す。頬に掛かる細い糸。
  月の、光と影とが踊るように暫しの間、白い頬の上を移ろう。
  心が夢を見ているようだ、といつも思う。それほどまでに、現実感のない、懸け離れた世界と思えた。
 「母様・・・」
  小さなくぐもった声は、静けさの中に呑まれる。
 「・・・」
  ふっと吐息を吐く気配。
  顔を上げる前に、そっと優しく抱きしめられる。
  上を向くことを止め、その胸に頭を埋める。
  それは抱きしめてと哀願する子供の行動で。
  『母親』になった彼は、そっと腕の中の『子供』を抱きしめる。廻した腕にそっと優しく力を込めた。
  ・・・いつのころか、遠い人を想うようになった。
  誰なのか、知らないくせに愛おしくて。
  姿はおぼろげなのに、はっきりとそう思った。
  一度意識してしまうと、心は囚われ、手足は惑う。
  その意識して止まない、愛しい誰かを捜して・・・。
  その目は不安げに大きく見開かれ、居もしない誰かを捜して動き回る。
  定められない視線は、でも、いつしか足元に落ちて・・・。
  そこに自分以外の誰かの足を、影を見つける。
  急いで顔を上げると、そこには見知った従者の顔。
  優しく微笑んで、手を差し伸べてくれる、従者の姿。
  見知っているはずなのに、なかなか見慣れることのない異国の容貌が目に映る。
  期待はずれの失望にしぼんでいく心と共に、下へと落ちる自分の視線。
  慰めるように言葉をかけられるが、聞こえない。
  何を言っているのかさえ、わからない。知らない。どうでもいい。
  もう、どうでもいい。
  切り捨てるべく動く、が、手を取られ、もう片方の手が肩に乗せられた。
  ・・・ひどく、戸惑う。どうしてと問おうとして、顔を上げると笑みとぶつかる。
  静かだが、柔らかさを多分に含んだ瞳が言う。
  安心して。
  もう大丈夫だから。
  あなたはちゃんと愛されている。
  いつも気にかけて貰っている。
  いくつもの言葉は、空気を震わせることもなく、心の中に、すとん、と落ちてくる。
  戸惑いが濃くなる。
  だって、どうして?
  どうして、欲しい言葉が聞こえてくるのだろう?
  与えられるのだろう。
  こんな、何の知らないはずの他人から。
  こちらの心境を知ってか、知らずか。
  瞳が細められる。
  ミカヅキみたいだ、と心の隅でそう思った。
  あなたの。
  声が・・・。
  大好きな。
  どこからか・・・。
  でも、会った事のない。
  聞こえて・・・。
  母君様から。
  嘘・・・。
  ですよ・・・。
  囁きは、すぐ近く。耳に吐息が掛かる。
  この男は魔女だ、と思った。
  母の姿をして、惑わして、喜ばせておいて、突き落とす。
  魔女だ、と思った。
  そのはずだった。
  全ては最後のひとことを呟きかけて『魔女』の唇の動きに惑わされて、夜の闇の中に消えた。

  ひとりの子供が。
  ひとりの母親に会いたくて。
  深い青の闇の中。
  ただ、ひたすらに走っていた。
  『父親』の後宮へと。
  その知識を与えたのは、子供の従者。
  せめて、一目会えば、と。
  惑わしたのは、ひとりの『魔女』。
  どこまでも続く、終わりのない、永遠の回廊を。
  子供は走る。
  走って走って走った。
  道は続く。
  途切れも、何もない。
  ただ、同じ道がどこまでも続くだけ。
  疲れて立ち止まった時は、従者と『母』と『魔女』が現れる。
  惑わされ、走り出す。
  永遠に。
  続く回廊を。
  ひとりの子供は。
  ひとりの母親に会う為に。
  永遠に。
  走りつづけるのだ。

 

ただの一度も、諦めることもなく。その永遠は誰のため―――?

 

 

≪おわり≫